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伊佐沢の色々紹介

久保の桜
 エドヒガン巨木で目通り9メートル。天保・弘化年間約150年前のころは、枝が四反歩(約4000平方メートル)に広がり「四反桜」の名で親しまれていた。
 久保ザクラに関する伝説には、征夷大将軍坂上田村麻呂が当地に立ち寄ったさい、地元の娘お玉と思慕の仲になったが、田村麻呂の帰国後お玉が亡くなったため、桜を送って植えさせたのが久保ザクラであるといい、また戦国時代当地に住む伊達家の家臣桑島将監が、妻お玉と子を亡くし、その供養のために植えたのがこの桜であるともいう。
 現在桜の幹の中心部は朽ちて空洞化しており樹齢の特定は難しいが、推定樹齢約1200年と言われている。地元のあたたかい保護を受け、毎年4月下旬ごろ枝いっぱいに紅色の美しい花をつけている。

久保の桜の歴史(窪桜・お玉桜)
(「伊佐澤の郷土誌 昭和三十一年十月十三日刊行」より)
イ.樹歴
●宝永五年(1708年)4月7日の見取図(鈴木謙二郎所蔵)と久保桜

 宝永五年久保桜見取図解(橋本賢助)
「一の枝は南に十五間半のび、そのまわりは一丈六尺。この枝は東に七間半、そのまわりは一丈ある。この枝から分れた枝が四尺まわりあってその四間のところで地面より十一尺五寸のところで上向して更に北にのびている。五の枝が西にのびてあれ下り本幹より三間半の所で地面より二尺はなれ更に上向きして西にのびている。本幹より分れた太枝が十一本あり、錯綜して四方にひろがっている。」
●四反桜とうたわれた久保桜
 天保・弘化のころ(1829年−1848年)は、そのひろがり四反歩に及んだというので「四反桜」の異名で偉観がうたわれた。しかし現在はその頃の一の枝・二の枝が折れ、三の枝だけが残り周一丈五尺、全枝東西十六尺五寸、南北十六間五尺にすぎない。天保の頃は東がけ下の小川に達し子供等が小川にたわむれ枝ずたいに幹を渡って遊んだと口碑は伝える。
●安政の頃(1854年−1859年)の口碑と久保桜
 桜の根元の洞(ほこら)に或る夜乞食が宿って炊事をしたところがやけどして退散した。火は桜のくちた部分をもやし、木の皮をやいたのでので土面にたれた大枝がほとんど枯れおちて樹形が一変した。
●天然記念物としての久保桜
 大正十年内務省「天然記念物」に指定され、桜のほとりに記念碑が建てられた。
●大正十二年(1923年)、三好学博士の鑑定による久保の桜。
「この桜の品種は”エドヒガン”で樹齢は約400年はこゆ。この種の桜は桜の中でも樹令が長く5・600年にも及ぶものあり。中部以西に自生し、往々大木となる。このように樹形のととのって成長しているのは珍しく、したがってこのように樹令が保つたのであるが、これは弧木である。風が弱いためだろう。」(後略)
 なお「この老樹には調整の美があり、幹のまわり一丈五尺・高さ四丈八尺・十六間四方に広がり一茎七・八輪、淡紅色にいろどられた美観は他にその類をみない」(小関仁四郎資料)といわれる。
●郷土の人々と久保桜
 安政の火の直後、郷土の人々は三枝に支柱を立て柵をめぐらして保護した。近年、西枝二本、南枝一本、北枝一本がかれ(洞には子供数人を入れ得る)たまま残っている。現在六十余本の支柱をもって支えている。有志は保存会を組織して名木の保全をはかりつつある。
●「重要記念物指定」のための踏査。  昭和三十一年(1956年)六月、重要天然記念物指定のため、文部省吉川 枝官、県文化財調査委員結城嘉美の両名が、久保桜を踏査したが、調査結果による久保桜の概況は次の通りである。根まわり10.85、目通し8.10米、高さ17米。

昭和31年頃の久保の桜
「伊佐澤の郷土誌 昭和三十一年十月十三日刊行」より
ここをクリックして下さい。もう少し高画像です。
今の久保の桜2003.12.31撮影
左の写真と比べてください。同じ感じで撮影したつもりですが、様相が結構変わっています。ちょっとだけ見える左下の民家の屋根は変わらずと思います。

ロ、桑島氏及び久保桜に関する記録
●米沢雑記事
「上伊佐沢東の山際に桑島館とて古館の跡あり、往昔伊達公領地の節、家来桑島丹後守(将監、新左エ門仲綱のことであろう)とて馬医の名人此所に居館す。(後略)」
●桑島氏系図「仲綱(五代)」
 仲家長男、母は伊達の臣清水主膳茂俊の女。桑島彦八郎、平六将監、新右エ門。八条近江守流馬を善くし、医馬の方を学び妙術を得伊達公に歴任、近臣となる。永正より天文中に及ぶ。(後略)
●重知(七代)
(前略)古跡を訪ね下長井郷伊佐沢村館用山玉林禅寺に至る。此地往昔先祖桑島新左エ門仲綱の宝の祠堂あり。是故開基と称す。牌名を「如意珠院殿当寺開基玉林妙高大姉、永祿十三年六月四日ときざむ。是即ち仲綱の内室なり。年来百五十有才を歴むと雖も今尚神主安置す。(後略)」
●牛翁”牛のよだれ”
「米沢伊佐沢に桑島新右エ門信国(仲綱のあやまり)という者あり。(中略)領主より千石と給う。(中略)家族はみな死に果てゝ信国独身となり永禄十三年(天正十八年のあやまり)禄をすてゝ高野山に卒せり。久保の桜は此の信国の桜なり。」
●桑島書置
「(前略)それより伊佐沢の八幡様の御社内に居る。(桑島館のこと)二十年渋谷どの聟となる。(中略)一、寺のこと国本よりはなれずきた人なれば二十まで我等添えておき、二十に成る時寺もなきところへ庵をたて安善房として四俵に三貫匁宛年々きんしを付。その内永祿時代親子(妻玉と息新太郎のこと)死去致、親子の戒名を相持、国本の寺へ相登候へば国本の寺の戒名ごろうじて寺号山号になされて其上けすえんとうどに被成て御下し被成安善房捨てくりん用山玉林寺と称す。(後略)」
●米沢地名選(文化年中の作、米沢藩最古の風土記)
「在長井伊佐沢。その木東西によること十四・五間。(中略)又昔伊佐沢に桑島氏というものあり。今に桑島館とて有。その女美女にして早生す。その名をお玉という。父母あわれみて、しるしに桜を植えたる墓木なりという。(後略)」
●米沢里人談
「伊佐沢の窪の桜は五・六〇〇年の樹なりと。往古は俗間に生き道を引くということあり。飾壇をきずき香を供し数十人の出家を招き、幾百の人をあつめ餉を供し酒をすゝめ、塔堂供養の如し。大富豪にあらざれば是を催すこと不可能という。(後略)」
●米沢鹿の子
「伊佐沢窪という所に有。枝茂りたるをみるに、長さ十七間程あり。さかりは八十八夜の前後なり。御城下より五里ばかりあり。昔桑氏を葬りて印に植置しと伝えり。(中略)かくの如く大木となりて人のなつかしみを受くる大木となれり。」

 やはり今の館部落の「タテ」は桑島館に由来するし、もともとは今の久保の「クボ」は窪の字である。だから久保桜はお玉桜・四反桜などと呼ばれるがこれは異名であって「窪桜」が正しい。ともあれ久保桜はお玉悲愛の物語にいろどられて広くもてはやされる国の名木であるが、桑島仲綱が二重坂の道すじ窪に祭壇をきずいて盛大に妻女「お玉」と総領新太郎の供養を行った時の標に植えた一枝の桜樹が成長して今日に至ったものである。長井市学校教育課長小関仁四郎が各種の文献的考証によって推定したところによると久保桜の樹令は四〇〇年乃至四五〇年である。
(「伊佐澤の郷土誌 昭和三十一年十月十三日刊行」より)

御覧の皆様へ
いさざわドットコムでは、久保の桜写真のページを作りたいと思っています。写真をご提供いただきたく、募集しています。何も御礼ありませんが、これぞと思う写真をメールに添付して送ってくだされば幸いです。よろしくお願いします。info@isazawa.comまでメール願います。